古き良き時代  文:薬師小屋(横田進一郎)様


大正8年頃の藤崎宮前(熊本電鉄80年史より)

はじめに

 熊本電鉄は、多くの地方中小私鉄がモータリゼーションの波に飲まれ廃業するとこ
ろが多い中で路線縮小はしたものの、現在も第3セクターを除く県内只一つの私鉄と
して健闘している。この熊本電鉄も鉄道部門の経営は決して楽ではなさそうで、ぎり
ぎりまで合理化を計っている様子がうかがえる。
 電鉄も戦時中から戦後の一時期までは乗客の積み残しが出るほど盛況だった時代も
あったのである。筆者は終戦の翌年、熊本市内の中学に入学したこともあって、沿線
の高江駅から室園まで毎日この電車に揉まれて通学していたので、いまだに愛着を感
じている。
 昔を知る人も少なくなったいま、この電鉄の古き良き時代?のエピソードを綴って
みたが、何分にも50年以上前の記憶を頼りに書いているので、思い違いがあれば御
容赦頂きたい。

1.あと一けーん、三じゃーく、トンコーツ

 戦後は重工業が爆撃の被害などで生産力が極端に低下し、国鉄をはじめ、大手から
中小私鉄を含め車両、資材の補充もままならない中で、押し寄せる乗客、貨物をやり
くりしながら何とか捌いているのが実情であった。
 当電鉄も事情は同じで、朝は菊池方面から熊本市内に向かう通勤通学客で、終点の
藤崎宮前に近づくにつれて混み合い、夕方はこの逆というのが決まったパターンで
あった。
 従って夕方は電車に客車を1両又は2両連結して藤崎宮前を出発し、乗客が減ってく
る大池駅とか高江駅で客車を側線に入れて切り離し、翌朝隈府を1両で出発した電車
が途中ですでに乗客が乗り込んだ側線の客車を拾いながら藤崎宮に向かうという合理
的な運用を行っていた。又当時は貨物の扱いも多く、国鉄から乗り入れてくる貨車を
電車が牽引することも多く、電車に乗客を乗せたまま、客車や貨車の連結、開放作業
がしばしば行われていた。
 開放は電車が客車を押しながらバックして側線に入り、連結器を切り離すだけだか
ら簡単であるが、連結の場合はバックで側線に入っていくので運転手には連結側の様
子が見えず、盲目運転で徐行しながら客車に接近していく。この際、客車の脇に駅員
又は車掌が立ち、電車と客車の間隔を目測しながら大声を上げて運転手にその距離を
知らせ、運転手はその声を聞きながらブレーキを加減していた。
 その頃はまだ尺貫法が一般的で、この合図の掛け声が表題の「あと三げーん!あと
一けーん!三じゃーく!トンコーツ!」であった。
 この間、尺は判るが、トンコーツというのがどういう意味なのか友人たちと笑いな
がら首を傾げたものである。ラーメンのスープでないことは確かだが、恐らく連結器
がぶつかるときの音を擬声音で表したのだろうと思う。


モハ71(熊本電鉄80年史より)

2.置き去り

 数少ない車両をうまく運用する手段として前の日に留め置いた客車を翌朝拾って行
くだけでなく、朝の下り電車に連結した客車を途中の駅で切り離し、上り電車がそれ
を増結していくという方法も取られていた。ある朝大池駅で下り電車が切り離した客
車をその駅で交換する上りが拾うことになり、満員の上りに乗っていた乗客が飛び降
りて切り放された客車に乗り移った。上りにはすでに1両の客車が連結されており、
私はその客車の最後尾に乗っていたが、乗り換えはしなかった。電車は一旦本線に入
り、そこからバックして下り線上にある客車を連結するものと思っていたところ、本
線に入った上り列車は停止することなくスピードを上げて走り出してしまった。残さ
れた客車の乗客は呆然としてこちらのほうを見ていたが、私は横にいた友人たちとざ
まー見ろと手を叩いてはやし立てながら小さくなって行く客車の姿を見送った。恐ら
く上り電車の乗務員に増結するという連絡が徹底していなかったためこのようなミス
が起こったと思われるが、電車が1両なら後部に車掌が必ず居るので後方を確認すれ
ばこのようなミスは起きなかっただろうが、その時は既に後部に客車が1両連結され
ていて車掌から後部が見通せなかったのも不運であった。
 置き去りにされた客車は次の上りに連結されたものと思うが、朝のラッシュ時でも
30分くらいの間隔であったから、通勤客は当然のことながら遅刻しただろうし、乗
り移った乗客の中には同じ学校の生徒もいて、その朝は遅刻する結果となった。
 電鉄の取締役の一人M重役は合志川畔に住んでおられ、よく高江駅から我々と一緒
に乗車されたが、その朝乗り移った乗客の中に運悪くM重役が居られ、あとでそのと
きの運転手その他関係者がこっぴどく怒られたということである。


モハ201(熊本電鉄80年史より)

3.断線 

 断線とは線路上に張られた架空線が切れることで、熊本電鉄の集電装置は現在のよ
うなパンタグラフでなく、トロリーポールを使用していた頃はよく発生した事故で
あった。国鉄をはじめ、大都市近郊の私鉄は昔からパンタグラフを使用していたが、
市電や、地方の中小私鉄は戦前から戦後の一時期まではポールが一般的で、熊本電鉄
でも終戦後10年くらいまではポール集電であった。
 ポールは先端に滑車状の溝車がついていて架線に転がりながら接触するので、架線
の磨耗は少ないが、高速を出したり、分岐点やカーブの架線が複雑な個所では外れや
すいという欠点があった。従ってこのような場所ではあらかじめ車掌がポールのロー
プを握っていて、外れるとすかさずロープを手繰って再び架線に着けるという作業を
行うわけである。
 市電などの場合は万一車掌がロープを掴んでいないときに外れても火花が飛ぶくら
いで、天を指したポールを引き戻せば大事に至らないが、市電に比べ、郊外電車の場
合はモーターの出力も大きく、取り入れる電力が大きいのでポールのばねの力も強力
になっている。
 従ってもし外れた際に車掌がロープを握っていないと猛烈な勢いで跳ね上がり、架
線を吊っている張線や、架線そのものを切断してしまうのである。
 断線事故があった後は取りあえず針金等で縛って仮復旧するが、その個所は弱いの
か、通過する際はポールを降ろす必要があったらしい。事故個所が近づくと車掌と運
転手の連絡用の引き紐を運転手がちんちんと鳴らして車掌に知らせると、その合図に
応じて引き綱を引いてポールを降ろし、事故地点が過ぎると再び架線に戻していた。
この事故地点を示す目印として枯草がぶら下げてあったのを思い出すが、なんとも珍
妙な目印であったと思う。


モハ101(熊本電鉄80年史より)

4.自動貨車

 自動貨車とは奇妙な言葉であるが、戦時中陸軍の鉄道連隊が使用していたと何かの
記録で読んだ記憶があるのだが、要はタイヤを付ければ路上、外せば軌道を走ること
ができる6輪駆動のトラックのことを電鉄ではそう呼んでいた。
 終戦直後電鉄には払い下げを受けたと思われるこの車両が5〜6台あり、貨車牽引の
ほかに朝夕のラッシュ時に客車を牽いて藤崎宮前と高江の間を1往復のみ乗客輸送を
行っていた。最初は小型の客車を1両だけ牽いていたが、輸送力が少ないとか、重い
鉄道車両を牽くことに問題があったのか、同時に払い下げを受けた軽量の貨車2両に
キャンバスの屋根をつけた車両で客扱いをするようになった。 
 平坦地では結構スピードが出るので、私自身が目撃したわけではないが、友人の話
ではある時、道路と並行している大池、辻久保間の直線区間で進駐軍のジープが競争
を挑んできたが結構いい勝負をだったとのことであった。この時分、道路は未舗装の
砂利道だったので、ジープもそれ程スピードは出なかったのかもしれない。
 しかし勾配にかかると本来の鉄道車両に比べ軽量なため車輪が空転し、時には人が
歩くほどのスピードに落ちてしまうこともあった。
 その対策として後には荷台に重りとして鉄道車両のタイヤ(車輪のスポークを除い
た部分)を3本ほど積んでいたのを覚えている。
 乗っていて困るのは雨の日で、屋根はあるものの窓ガラスなどもちろんなく、横か
ら吹き込む雨でずぶぬれになることであった。
 この列車が運行されたのは昭和20年の後半から21年に掛けてで、その後、EB
1型という電気機関車が3両電鉄に入ってきて、大型の客車を牽いて同じダイヤで走
るようになったので、自動貨車牽引の簡易客車も消滅してしまった。


EB2(熊本電鉄80年史より)

自衛隊朝霞駐屯地に保存されている100式鉄道牽引車
かつてきく電で50年以上前に運行されていたものと同じものが見学できたことは感激でした。
 現車を見たところ、きく電時代と違うのは、荷台のアオリに外したタイヤを取り付ける装置がなかった事と、前後のカプラ−が朝顔ではなく、簡易自動連結器になっていた事でした。これらは使用条件に応じ色々なバリエーションがあったのでしょう。

2001/4/7 薬師小屋(横田進一郎)

5.トロッコ

 電鉄では戦後、路線や駅の改修を方々で行っていたが、その頃の土木工事は現在の
ようにダンプカーやパワーショベル、ベルトコンベヤーなどの機械設備は全くなく、
殆どが人力で、土運びの道具といえばトロッコが一般的であった。泗水駅の建設は田
圃を埋めるため富駅の北方の丘を切り崩し、電車の線路脇に敷設したトロッコの線路
上を作業者が土を満載したトロッコを押して運んでいた。幸いなことに土を切り崩す
地点から泗水駅に向かっては緩やかな下り勾配になっていて、作業者はトロッコを押
すというよりも、自然に走り出すトロッコの端に乗っかり、ブレーキの丸太棒を引
き、速度を調節すれば良かったようだ。戻りは上りとなるが、帰りは空荷だからそれ
程苦労はない訳である。これらの作業は照明もないので日のある内だけで、日暮れに
はトロッコを線路から下ろし、車輪を上にして線路脇に並べ、作業者は帰ってしま
う。それからがわれわれ悪童連の出番である。
 子供の手には重いトロッコを5、6人で起こし、線路上に載せると乗ったり押した
りして遊んだのである。遊んでいる最中に電車が通り掛ると慌てて物陰に隠れ、通り
過ぎるのをやり過ごしたものである。今考えると、トロッコ遊びの子供たちに運転手
が電車を止めて注意するということなどまずないと思うが、その頃は電鉄関係者に見
つかれば大目玉を食うものと考えて、不安を抱えながらもトロッコ遊びの魅力には勝
てなかったのである。
 一方北熊本駅の建設は規模が大きかったので、人力ではなく十数台のトロッコを小
型のガソリン機関車が牽いていた。そこでは土を掘り出す場所は電鉄の線路を挟んだ
反対側にあったため、電鉄の線路とトロッコの線路が交差していた。電車がそこを通
過する際、平面交差独特のたたん、たたんという音を立てながら通過して行った。

6.電気ブレーキ

 通常、電車には2系統以上のブレーキが備えられており,一つが故障してももう一
つのブレーキで停止できるようになっている。電鉄の51型の常用ブレーキはエヤー
ブレーキであるが、これが故障すると電気ブレーキを使用した。ところが故障以外で
もエヤーブレーキで停止できないと運転手が判断した場合、電気ブレーキを使うこと
が稀れではなかった。
 朝夕のラッシュ時、電鉄では2両くらいの客車を牽引していたが、これらの客車に
はブレーキがなく、電動車のブレーキにのみに頼っていたので、満員の乗客を乗せた
電車のスピードが出過ぎていると、下り坂下の黒石とか、八景水谷の駅ではオーバー
ランしそうになる。そうなると、運転手はすかさず電気ブレーキを掛けるのであっ
た。51型の場合電気ブレーキはコントローラーの前後進ハンドルを後進位置に入れ
ることでブレーキが掛るのであったが、入るとガツンという衝撃とともに乗客は前の
めりになり、気持ちのいいものではなかった。たまたま乗り合わせた電車のエヤーブ
レーキが故障していて長い下り坂で有名な花房の坂を電気ブレーキのみで何回もガツ
ン、ガツンとやられながら広瀬の駅まで下ったときは、恐怖を感じたものである。
 新車と呼ばれていた101型には電気ブレーキという装置はなかったと思うが、あ
る時夕立がやってきて雷鳴が轟くと、御代志、大池間で突然停電してしまった。私が
運転台を覗いていると、空気圧力計の針はどんどん下がり、エヤーブレーキが利かな
くなってしまった。どうなることかと心配していると、運転手は慌てることなくハン
ドブレーキのハンドルを握り、横に居た車掌に「腹が減るバイ」などと冗談を言いな
がら回し始めた。
 このような大型の電車でも人間一人の力で止める事が出来るものだと改めて感心し
た次第である


モハ52(熊本電鉄80年史より)

7.一旦停止

 鉄道と自動車では鉄道に優先権があり、踏切遮断機があろうとなかろうと、車が踏
切を渡るときは一旦停止するのは極く当たり前の常識であろう。ところがこの常識が
通用しなかった時代があったのである。当時は敗戦後の占領下で、進駐軍の命令は絶
対的なものであり、これに逆らうことは出来なかった。
 先の第2次大戦が終わると、すぐに連合軍が全国各地に進駐したが、熊本では現在
自衛隊の北駐屯地のある場所に進駐軍のキャンプが設営され、熊本市内からこのキャ
ンプまで米兵の運転するジープや、GMCの大型10輪トラックがひっきりなしに通
うようになった。
 市内からキャンプまでの間に室園駅の北と八景水谷の北に2ヶ所の踏み切りがあり
この踏切の手前で電車のほうが一旦停止させられていたのである。噂によると、この
どちらかの踏み切りで、進駐軍車両と電車が衝突する事故があり、このためこの処置
が取られたとのことであった。当時国鉄をはじめ、全国の私鉄で同様のことが行われ
たということを聞いたことがなかったが、他でもこのような例があったのだろうか?
 現在東急世田谷線が環状7号線と交差する地点で、普通の交差点のように交互に
青、黄、赤になる信号に従って電車も信号待ちをする光景が見られるが、世田谷線は
全線専用軌道でも市街鉄道と同じ基準の鉄道であり、信号待ちするのも肯けるが、当
時の熊本電鉄は設備はお粗末だったかもしれないが、れっきとした地方鉄道であり、
市電などの路面電車とは異なるのである。いかに敗戦後の占領下とはいえ、屈辱的な
ことではあった。
 現在八景水谷の踏切は警報機も遮断機もあり、当然のことながら自衛隊の車も一旦
停止し、安全を確認した上で通過していることは言うまでもない。

8.丸太と枕木のホーム

 電鉄は記録によれば、明治44年に菊池軌道という名前で開業した道路上に敷かれ
た線路を走る蒸気動力の軽便鉄道であったが、大正12年、国鉄と同じ3フィート6
インチ軌間の専用軌道に改良し、電化すると共に社名も菊池電気軌道と改めた。
 第2次大戦も激化した昭和17年、藤崎宮前と隈府間を今までの軌道から地方鉄道
に変更し、車両も本線の主力だった1型を51型に順次変更していった。
 1型は客車や貨車を連結できるよう連結器は備えていたが、いわゆる市街電車型の
車両でステップが低いため、隈府駅を除くと駅にプラットホームというものはなく、
地面から直接乗り降りしていた。ところが51型は小型ながら純然たる郊外電車型の
車両なので乗降口の高さは大人の胸ほどもあり、乗り降りにはどうしてもホームが必
要である。
 この車両の入ってくるのが急だったのか、電鉄ではこの車両のため、各駅に古電柱
を切ったものを2本ずつこの車両の乗降口の位置に合わせて埋め、その上に枕木を載
せたギリシャ文字Π型のステップを急造した。
 これはあくまで応急処置だったと見えて、その後木造ではあるが3段の階段状のス
テップに取り替えられていった。
 藤崎宮前駅は路面上にあったのでこのようなステップを造ることが出来ず、市内線
と鉄道線が分岐するV字型の地点にあった民家か商店を買い取り駅舎にすると共に、
裏側の線路に沿ったところに板張りのプラットホームが造られた。
 各駅に石積みと土盛りの本格的なホームが出来たのはその後大分経ってからだった
ように思う。枕木のステップは当然がら枕木1本の長さしかないから、電車はこの位
置にぴったり止めなければならなかったから、運転が難しいだろうと思ったものであ
る。


モハ1(熊本電鉄80年史より)

9.マッチ箱

 前項の丸太と枕木のホームで書いた様に電鉄が昭和17年に地方鉄道に変更になる
とともに導入された51型は木造ながらスタイルはほぼ同時期に国鉄が導入した国電
のモハ63型と同じ切妻タイプで、切妻はそれ以降の国鉄通勤電車の標準スタイルと
なったのだから最先端のデザインであったとも言える。しかし当時の子供達の目には
このデザインが突飛なものに見えたのか、みんながマッチ箱というあだ名で呼んでい
た。
 当時は戦争も次第に激化し、筆者が通っていた菊之池国民学校では村から出征兵士
が出るたびに生徒全員が先生に引率され、最寄の深川駅まで見送りに行くのが慣わし
になっていた。その際たまたま新造の51型がやってくると、生徒たちはマッチ箱が
来たといって喜んだものである。その頃の51型はペンキの色もぴかぴかで、トント
ントンと響くコンプレッサーの音も軽やかに聞こえ、ずいぶん立派に思えたものであ
る。その後暫くして51型に乗って見ると少しでも乗車定員を増やすためか座席は少
ながったし、足回りは旧型の1型の部品をそのまま使っているのに、旧型に比べ車体
幅が広がったのが原因かスピードを出すと蛇行するような横揺れが大きく、乗り心地
はよくなかった。しかし51型は戦中から戦後にかけて電鉄の主力として大いに活躍
した。特に戦争が激化した一時期はげ茶色の車体を斜めに走る黒色の縞模様を入れた
迷彩を施していたこともあった。しかし陸軍の飛行場があった花房台地の付近を走行
中にグラマン艦載機の銃撃を受けたという事も聞いているのでどの程度効果があった
かは不明である。
 またその時期はあらゆる資材が不足し、特にガラスは入手困難で、窓ガラスが割れ
ても補充が難しかったと見えて窓は2つ置きに板で塞いでいたこともあった。


モハ52(熊本電鉄80年史より)

10.新線

 その頃電鉄では各所で路線の改良工事を進めており、カーブの急なところでは線路
を付け替えて緩和するような工事を行っていた.その最も大規模なものが北熊本駅の
新設と車両工場の移設であっただろう。線路と駅の移設が最も早かったのが堀川駅と
その周辺だったと思う。電鉄の線路は概ね県道(現在の国道387号線)に沿ってお
り、堀川駅ももとは県道脇にあったが、新線は現在の八景水谷駅付近から東方向に道
路を離れ、畑を掘削して現在の位置に新駅が建設された。旧線は堀川駅を出るとS字
を画くように大きく東側に迂回していたが、新線は緩いカーブで坂を下り、須屋駅に
向かうように変更されていた。堀川新駅は石積みの立派なホームと、ポイントの脇に
は今までどの駅にもなかった切り替えの方向を示す青丸とオレンジ色の矢羽の標識が
ついていて新鮮だった。
 新線切り替えに当たって、当然駅には何月何日新駅に切り替える旨の表示が出され
たと思うが、車内に案内広告のようなものはなかったようで、ある朝、突然電車が新
線を走り出したので吃驚した思い出がある.
 さらにこの駅には貨物用引込み線とホームが新設され、そのホームは駅近くの進駐
軍キャンプで使う石炭の積み下ろしに活躍するようになるのである。新駅は線路と
ホームは出来たものの駅舎までは手が廻らなかったと見えて、51型新製で不要に
なった1型の古車体を貨物ホームの脇に据え付けて駅舎としていた。新線は北熊本駅
周辺、御代志、大池間、泗水新駅などが建設され、その他にも黒石新駅、辻久保泗水
間などは建設に着手したものの、結局実現しなかった。
 1型の古車体は室園駅の事務所にも使われていた記憶がある。何分にも物が不足し
ていた時代であるから、廃物利用など当たり前であった。


旧室園駅車庫(熊本電鉄80年史より)

11.直列運転

 戦災で室園変電所を焼失した電鉄では電力が不足し、熊本市電から電力の援助を受
けると共に、主力電車であった51型のコントローラーに細工し、並列に入らないよ
うにして電力の節約を計っていた。最近のハイテク技術が使われる以前の電車の制御
方法はスタート時には2台のモーターを直列に接続し、さらに抵抗を入れ、次第に抵
抗を抜いて加速し、次にモーターを並列にすると共に再び抵抗を入れ、この抵抗をま
た抜いていって最高速に達するという制御方法が一般的であった。
 しかし電鉄ではこの並列以降の過程に進めないようコントローラーをロックしてし
まったのである。従って本来なら600ボルトで最高性能が出るモーターが直列のま
までは最高でも300ボルトしか加えることが出来ないため、当然のことながら速
度、牽引力とも低下してしまうが電力節約のためやむを得ない処置であった。
 このような状態で満員の客車2両を連結して上り坂に掛るとスピードは目に見えて
低下し、人が駆け足をすれば追いつく位の速度になるのであった。
 しかし時にはこのロックが外されている事があり、運転手がハンドルを最後まで廻
すと、生き返った様に快調に走るので我々学生たちは運転台の横ではしゃいだもので
ある。
 ところがある時、この電車の運転手が途中で交替し、年配のTという人に変わると
規定通り直列までしかハンドルを廻さなかったので、学生たちが“最後まで廻るのに
と”横から口を出すと、“うるさい”と一喝されてしまった覚えがある。
 電鉄には当時我々も電鉄関係者も新車と呼んでいた最新鋭の鋼鉄車101型(51
型は木造車)が1両あったが、400馬力と強力ながら電力を食うため車両不足にも
かかわらず使用できず、宝の持ち腐れであった。

12.高速度遮断器

 電車には過大な電流が流れるとモーターや回路を焼損する恐れがあるので、これを
防ぐためブレーカーが設けられている。これは家庭にあるブレーカーと同じもので技
術用語としては高速度遮断器と言ったと思う。
 その頃の電車の遮断器は大体運転台の中にあって、切れた場合運転手がすぐに復帰
操作できるようになっており、51型の場合はコントローラー側の前窓の上に取りつ
けてあった。
 近代的な高速電車ではモータに流れる電流を機器が判断し、ノッチを自動的に進め
ていくが、市街電車や古いタイプの電車では運転手が電車の速度を判断しながら運転
手の勘でコントローラーのノッチを進める方法であった。この際、速度が上がらない
内に無理にノッチを進めると過大な電流が流れ遮断機が落ちる。落ちるときはバーン
という大きな音と共に真っ赤な火花が噴き出すので乗客は吃驚する。
 我々学生は何時も運転台の周りに群がって時には運転手と無駄口を叩いたりしてい
たが、気短な運転手がコントローラーを早めに廻すと遮断器が何時落ちるかとひやひ
やしたものである。
 遮断器が落ちる電流は規定の値に調整されている筈であるが、電車によって、また
ときによってすぐ落ちる場合となかなか落ちない場合があり、かなりばらつきがある
ように思えた。遮断器が落ちるとき出る火花は上に向かって出るようになっていたの
で、そのあたりの天井は黒い焦げ跡がついていた。
 友人の話で、自分が見た訳ではないので真偽の程は定かでないが、ある運転手が煙
草を吸おうとしたところマッチがなかったので、タバコを遮断機の火花の噴き出し口
にあてがい、いきなりコントローラーをトップまで回して遮断機を落とし火を点けた
という。


モコ1(熊本電鉄80年史より)

13.無灯火車

 電車は夜になればヘッドライトとテールライトを点け、室内に照明がつけられるの
は当然であり、最近のJRの電車は昼間でも室内灯は点けっ放しである。
 電鉄の電車も夜になればこれらのライトは当然点灯していたが、連結していた客車
は無灯火であった。これは電車と客車の間を結ぶジャンパーワイヤーという連結線が
なかったためである。従って夜になると連結された客車の中は真っ暗となり、窓から
入ってくる薄明かりで人の顔がやっと判るくらいで、本を読むことも出来ず、只黙々
と乗っているしかなかった。 その中でも車掌は切符を売ったり、降りる客の切符を
受け取ったりしていたから不自由なことだったろうと思う。
 その頃は家庭用の電力も不足していた時代であり、突然の停電があったりすること
は日常茶飯事で、その他にもローソク送電、線香送電などといって電圧を落として送
電されるため、電球が薄暗く点るようなこともあったので、電車の中が真っ暗でも特
に文句を言う客もいなかった。
 テールランプというものは最後尾を示すものであるから、最後部の車両に点灯する
のがあたりまえであるが、客車に電気が来ていないと当然の事ながらテールランプも
点けられない。これを解決するため電車の前後の腰板に付いていたテールランプを腰
板の下にぶら下げるように改造した。これにより客車を連結しても客車の車体の下を
通して電車のテールランプが後部から見えるようになっていた。
 窮すれば通ずというか、苦肉の策といえよう。
 その後暫くして総ての電車と客車にプラグとジャンパーワイヤー(連結線)が整備
され、夜になると増結の際、駅員や車掌がジャンパーワイヤを持って接続して歩く姿
が見られ、暗闇客車も解消した。

14.舶来品

 前にも書いたが我々学生達は通学時には運転手の両脇に陣取り、前方を見たり、運
転手の一挙手、一投足に注目していた。従ってコントローラーなどは毎日目にしてい
たが、運転手の左側にコントローラーがあって左手でこれを操作し、真中よりやや右
手にブレーキ弁がありこれを右手で操作した。
 現在では米国製より優れた国産品は自動車、電子部品等いくらでもあるが、敗戦直
後の日本では総ての物資が不足し、あっても国産品は品質が悪く、それに比べて外国
品、特に米国の品物は総てが上等に思え、煙草やチョコレートなどは憧れの品だっ
た。
 所が我々が毎日目にする51型のコントローラーの表面にはGENERAL EL
ECTRIC CO.LTD.という浮き出し文字があったが、その当時、GEとい
う会社がどういう会社か知らなかった私も、その中にMADE IN USAという
文字もあったので、アメリカ製だからいいものなのだろうと考えていた。
 この文字はコントローラーだけでなく、高速度遮断器の表面にもあったから、この
2点だけでなく、モーターを含む電装品は総て米国GEの製品が使われていたものと
思われる。なお連結器にはSHARONという浮出し文字があったのを覚えている
が、これも有名な米国の自動連結器メーカーである。
 51型は電鉄が電化したとき購入した1型の電装品を流用したが、1型を製造した
大正末期という時代は車体は国産出来る能力があったものの、電機部品は国内の需要
を満たすだけの力がなく、輸入品を使わざるを得なかったのだろう。
 市内から通学していた友人の話しによると、熊本市電のコントローラーにはWES
TING HOUSEと書いてあるといっていたからこれも米国製だった。

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