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toki 1999年11月23日投稿

あぁ、風呂キライ


日本人は風呂好きな民族だと、口々に世間では言われていますが
実際本当にそうなのでしょうか?
少なくとも私は日本人ですが、好きではありません。(キッパリ)
今回は少し風呂のハナシなどしてみたいと思います。

風呂好き民族の国日本において、実に1830年代後半までは一般の住宅に入浴施設は
ありませんでした。
それは水や燃料、施設を造るお金など負担が大きかったのが原因のようです。
つまり日本の風呂文化は、『共同浴場』から始まったといって間違いないでしょう。
みなさんの近所にも『銭湯』があるかもしれません。

この銭湯(洗湯)の前身は寺僧の生活規律に始まります。
仏教用語で『斎戒沐浴』と呼びますが、入浴する事は『温室経』という経典に
『七病を除き、七福を得る』とあるように僧侶にとっては大事な修行の一つだった訳です。
(修行ですよ!・・・まったく、私は修行がキライです。しかも、仏教ってインドじゃないの!)

このような寺の温室(蒸し風呂)は、実に700年頃光明皇后の時代にまで文献で遡る事
ができます。奈良の東大寺にも大湯屋があって、寺院は仏教を広める意味から
一般の人たちにもこの湯屋を開放したようです。
その時徴収した『お布施』が、入浴料金の始まりなのですが、
何しろ功徳を求めて人々が来る訳ですから、まったく結構な商売だったのでしょう。

やがて日蓮上人の時代になると『湯銭』という言葉が生まれます。
こうしてお金が集まると、入浴施設を建てて運営する事が可能になる訳です(合木風呂)。
もっとも、最初は燃料の薪を持ち合いで使っていたようで、この名前が付いたみたいです。
ただ、こうした共同浴場は蒸し風呂が主体で、
『湯に浸かる』という行為ではありませんでした。

湯あるいは、水に浸かるのは『行水』の習慣から生まれてきました。
(民間人は川や池で適当に体を洗っていたようです。)
それが、やがて豊臣秀吉の時代になると『朝鮮出兵』から帰国した将校が『据え風呂』
の習慣を伝えます。これは、鍋で煮た湯を大きな桶に移し入浴する方法で、
(なんだい!またまた外国からじゃないか!・・・)
関東では『鉄砲風呂』、関西では『五右衛門風呂』として広まります。

やがて、1509年に江戸で第一号の湯舟付共同浴場が生まれる訳ですが、
当時は全て混浴でした。そして『石榴口』といって、茶室のように丈を低くした入口から
浴室に入る(湯の温度を下げない工夫)銭湯が出てくる訳です。
そして『女湯』(といっても日にちを限定して女性専用の日)を作って男女の区別を
するようになり、1787年寛政の改革以後、現在のように
男女が区別された共同浴場が生まれた訳です。

如何でしょうか?共同浴場にしたって200年そこそこ、個人宅の浴室なんざ100年そこそこ
の歴史でしかありません。私たちって本当に風呂好きな民族なんでしょうか?
だから、毎日入る必要など無いのです。(断言)
私が入浴しなくたって怒らないでください。。。



あぁ、風呂キライ2

『私の風呂嫌い』を未だ理解していただけない人(きみだよ!)の為に
続篇を作成してみます。前篇では主に国内の風呂の歴史について書いてみました。
今回は、目を世界へと向けてみます。

私に限らず、『原始人』は水辺に住んでいたらしいと想像する考古学者が多いのは
単に生物学的に水分が必要であったという解釈以外に、最古の旧石器時代の道具が
砂礫層から数多く見つかっているという事実に基づいたものです。
当然、彼らは自分の体が臭いとか汚れているといった感情は持ち合わせていなかった
としてもです。
『飲料水を確保』する事。この為には、運搬技術を持たない当時の人々は、否応無しに
『水辺』に居住するしかなかった訳です。
【そして、コンビニエンス(便所)は水飲み場より下流になければならない。】
という、最初の衛生計画が生まれ、その為には『水は流れていなければならない』という
仮定が成立しています。

やがて、時代も進みこの『水』が現代の『油田』に匹敵する程の富と権力を持ち始めます。
『よりおいしい水』を中心に勢力争いが興り、『水源』は『聖地』へと変わります。
これはアボリジニや南米の少数部族の日常生活を見れば明らかです。

ところが、人間の増加はいつしかこの『水源』の数を上回ってしまいます。
新石器時代を迎えると、『運搬手段』である『土器』が出来上がります。
ヒトは、水を飲むためになら何マイルでも歩く事が出来たからです。
(ところが、入浴の為には決して歩いたりしません。)
オークニー諸島、スカラ・ブレー砂丘の下から見つかった新石器時代の遺跡には、
粗造りのドレン(配水溝)やラトリン(簡易トイレ)、ベット、サイドボードなどが、
道具を使って作られた形跡を垣間見る事ができますが、残念ながら入浴設備はありません。
技術的には大型の土器を作る事が可能であったにも関わらず、
どうして浴槽が無かったのか・・・・・つまり、風呂は二の次、三の次ぎな訳であります。

我々が知り得る尤も初期の浴槽は、紀元前1700年ギリシャのクレタ島に存在しました。
アーサー・エヴァンズ卿が発見したクノッソス神殿です。
(ミノタウロスや、イカロスの物語でご存知の方も多いでしょう)
この神殿はミノス王の為に、当時の名工ダイダロスが作ったとされています。
この神殿内部は、陶器製の配水管で繋がれた独立した給水設備を持ち、
浴槽の他にも、便所(現在のウォッシュアウト式排水機能を持つ)や下水道が整備
されていました。
現在、我々が使っているバスタブや陶器の便座はこの時代のモデルから形状がほとんど
変わっていません。
ただ、ギリシャの入浴は冷水が基本でした。(何故なら昇温設備が無かったからです)

いかがです?これでも日本人が風呂好き民族の筆頭に上げられるのでしょうか・・・。

『風呂を語るならローマを知れ』と云われる程、現在の入浴習慣に深く関わるのは、
300年以降のローマ帝国です。
当時、11の共同浴場、856の私設浴場があったと伝えられています。
しかも、その共同浴場たるや『カラカラ浴場』(セントポール聖堂の6倍)、
『ディオクレティアヌス浴場』(カラカラ浴場の倍)もありました。
※ディオクレティアヌス浴場は、その後ミケランジェロがその玄関部分を使って
サンタ・マリア・デリ・アンジェリという聖堂を建築しています。(たった、玄関だけ・・・)
当時のローマでは、一日あたりの給水量が300ガロン。現在の主要な都市(東京、大阪)
では50〜75ガロンと比較して如何に多くの水を使っていたかが窺い知れます。

当時の入浴は以下の手順で行われました。
@午後一時、銅鐘(アイス)が入浴時間を告げるとクァドランス(約半ファージング)
の入浴料金を払って入場します。
A『スファエリステリウム』(球技場)で、テニスをして十分汗ばんだら
『テピダニウム』(低温サウナ)へ着衣のまま入ります。
Bつぎに『アポディテリウム』で着物を脱ぎ、オイルを塗ってもらいます。
ここで、忘れてはならないのが、

『入浴するものは、行儀正しく、つつしみ深くあらねばならない。
自分では何もしないで、他人に水をかけ、摩擦してもらうべきである。』(ヒポクラテス)

Cそして、『カリダリウム』(温室)に入り存分に汗を流す。
D更に『ラコニウム』(釜風呂)で、短時間発汗する。
そこで、温水、ぬるま湯、冷水と順に浴びる。
E次に『ストリギル』といういわば『あかすり』をして、再びオイルを塗ってもらう。
F最後に『フリギタリウム』という浴槽に浸かって完了。
後は、知人との会話を楽しんだり、軽食をとったりと自由に寛ぐ訳です。
通常入浴時間は、午後1時から夕暮れまででしたが
中には深夜まで開けていた店舗もあったそうです。

これが!!『入浴』なのです。ふむふむ。こうでなくっちゃ。
(これなら、入れるかもしれないなぁ。。。)

最後にベスビオの噴火で消失した街ポンペイの壁に残されていた、浴場の開店案内の記事です。

DEDICATONE. THERMARUM.(近々浴場が奉納、)
MUNERIS. CNAEI. ALLEI.(もしくは正式オープンします。)
NIGIDII. MAII. VENALIO.
ATHELAE. SPARSIONES. VELA.(皆様には野獣屠殺、体操競技)
ERUNT. MAIO. PRINCIPI.
COLONIAE FELICITER.(日除け天幕、スパルシオネスを約束します。)
※『スパルシオネス』とは、香水を施設内に散水する事です。

IN PRAEDIS. JULIAE. S. P. F. FERICIS.(スプリウス・フェックスの娘ユーリアの地所に)
LOCANTUR
BALNEUM. VENEREUM. ET.(八月のイデスの一日目から六日目まで)
NONGENTUM. PERGULAE.
CENACULA. EX. IDIBUS. AUG.
SEXTAS. ANNOS. CONTINUOS.(浴場、売春宿、90の店舗、あずまや、アパート)
QUINQUE.(を5年契約で寄与します。)
S. Q. D. L. E. N. C(いかがわしい職業に従事している方、お断り)
※イデスの1日から6日は、8/13〜8/16に該当します。)

まぁ、いつの時代も広告ってのは大事かもしれません。
目を閉じて想像してみると、ポンペイの人たちの生活が思い浮かんでくるようです。
まさに『入浴』はローマ(帝国)にて創始されたといって間違いないでしょう。